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#kosen14s 読書会

ニーチェの手紙』の手紙を読んで

モリゾー(@)

私は今回、ちくま学芸文庫出版のニーチェの手紙

(フリードリヒ・ニーチェ 著/茂木健一郎 編・解説/塚越敏 眞田収一郎 訳)を読みました。

序文

素朴な質問をします。
あなたは恋をしたことがありますか?
私はあります。そしてこれから話すニーチェことフリードリヒ・ニーチェにもありました。

ニーチェの手紙』とは名の通り、19世紀を生きた哲学者ニーチェが家族に、友人に、そして想い人ルー・フォン・ザロメに対して綴った手紙を100篇精選した本です。
今回はその中でもルーに綴った手紙に絞って話そうと思います。

本書は著者ニーチェの哲学者として革新的な価値観が評価されたこともあり、沢山の方々に読まれていると思います。
私は本書を含むニーチェの著書を読まれたことのない方に、その中でも特に人間関係で行き詰まりを感じている方の目に留まればと思い、今回執筆しようと思います。
同時に、本文を通して普段文章をあまり読まれない方にも楽しんでいただけるように文章の味わい方を少しだけ紹介したいと思います。

本文

文章を読むに当たって私からお勧めしたいポイントは3つです。
1. 文章の意図を考えること
2. 自分が登場人物の立場ならどうするか考えてみること
3. 自分と登場人物との違いを比較してみること
本書において、物語の主人公とも言える存在はニーチェです。
彼の心境を文章の奥底から感じ取ってみてください。

今回書くに当たって四つの手紙からそれぞれ抜粋して書き出し、三部構成で共に考察したいと思います。

まず始めに、本書に書かれた二つ目の手紙に書かれた一部分を抜粋してみたいと思います。

私がいつも自分自身を信じ、私たちの標語(モットー)を尊重し、そしてあなたの名声を高めるよう、私を援けてください。
「中途半端なまねはせず、善にして美しき全体(すべて)に決然と生きること」
P.30 L2~6

私が一番最初にこの手紙を見た時に気になったのは「私たち」という表現です。
ニーチェはさりげなく「私の標語」と書くのではなく「私たちの標語」としているところでルーと自分は運命共同体であるような演出を微かにするところに彼の人としての不器用さを感じました。
ところが、彼は堂々と好意を寄せているのです。
あなたならどうでしょう。ニーチェのように好きな人に堂々と好きと言えるのでしょうか。

文章に戻ります。ニーチェにとって、中途半端とはなんなのでしょう。
決然と生きることとはなんなのでしょう。
私にはこれらの文章がルーに決意表明したように見えます。
あなたはどう思われましたか。

さて、ここで私には一つ疑問が浮かびました。
ニーチェは中途半端なことをした心当たりがあるのでしょうか。
前もって自分はこのような誠実な人間です、と宣言したと捉えることができます。
逆に、次はもうこのようなことをしませんと反省の意を出したともこの文章からは読み取れるでしょう。
気になった方は是非この手紙の続きや、ひとつ前の手紙を見てください。

ここまででもどうでしょう、少しだけでもニーチェがどのような人物か分かったのではないだろうかと思います。
一見スラスラと内容の理解だけで終わってしまいがちな手紙も、詳しく読み解いていくと書き手の心情が輪郭から徐々に表れてくるのが分かるかと思います。


では続いて二つ目の手紙を挙げてみます。

- 一八八二年八月二四日 様式についての教え 一、必要であるものの第一は生、―様式は生きてなければならない。 (以下省略)
- 一八八二年八月二五日 ベッドに。激しい発作。私は生を軽蔑する。
P.54 L1~4, P.58 L8

彼はこの発作によって考え方に変化があったのでしょうか。
それとも彼は発作の有無に関わらず生を軽蔑していたのでしょうか。
そうですね、ここでは私たちがニーチェの立場に立ってみましょう。
もし、あなたがニーチェの立場なら発作が起きた時どう思いますか?
発作を仕方ないと受け入れる人も、苦しめられる自分を嘆く人もおられることでしょう。
しかしながら、ニーチェと私たちは質的に違います。
人は時にして価値観を質的、量的の二つで捉えます。
質的に違うという言葉の説明に際してですが、スワンプマンの話はご存知でしょうか。

ある男がハイキングに出かける道中、沼のそばで雷に打たれて死んでしまいます。同じくして別の雷が、沼へと落ちた。この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

というアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィットソンの立てた仮説なのですが、このスワンプマンと元の男は同じなのか違うのかという問題が生じるというのが今回私が伝えたかった本題です。
ここでは結論を足早に出してしまいますが、外面(量)は同じでも内面(質)が違うという事になります。

ここから話を戻して、皆さんに次はニーチェのスワンプマンになったつもりで考えて戴きたいのです。「ニーチェならこのように考えたからこんな文章を書いたのだろう」という考察をした時、本来のあなたとの思考との相違点を比較してみてください。
例えば、ここでの様式とは何なのでしょう。
あなたにとっての様式とは、ニーチェにとっての様式とは。
人の考え方が同じ条件でも多種多様なことが伺えると思います。


最後にこの手紙を挙げたいと思います。

もし僕がなにやら興奮して、いつか思いがけなく、命を絶つようなことになっても、みんなからおおいに悼み悲しまれるということもないだろう。 僕の空想、君たちになんの関係があろう!(僕の「真実」ですら、君たちはこれまでなんの関係もありはしなかったのだからね。) 君たちとくと考えてみてください、ついに僕が、ながい孤独のゆえにすっかり混乱してしまった、頭の病んだ半狂人になったのだ、と。
P.90 L2~4

ニーチェは悲しくも失恋しました。
同じくして、彼の長い孤独は彼自身の心を苦しめることになりました。
これは哲学者であるニーチェだからでしょうか?
いいえ、さにあらず。人間とは誰もが恋の度に自分の心を露わにします。
例えば、かの有名な音楽家、ルードウィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは想い人ルイーゼのために「ルイーゼのために」という曲を作ったものの字が汚かったために「エリーゼのために」とされてしまった話は有名です。
この事例が何を示すかというと、ベートーヴェンだって恋をすれば自分なりの方法で愛情表現をしたのです。
さらに言うのであれば恋に限りません。
かの詩人、中原中也は溺愛していた弟の亜郎が亡くなったとき、初めて詩を読んだと言われています。
人間は喜怒哀楽を感じた時、その一部を何かに模倣させて形にするのでしょう。
そういう意味では哲学者のニーチェにとって文章となる手紙は彼にとって最高の表現方法だったのかもしれません。
このように、人の心情が第三者の私たちからでも文章や絵などの媒体を通すことによって、少しでも理解することができるのです。
無論、これは会話も含みます。誰かと少しかしこまった話をするとき、少し意識してみると相手の思ってることがふと思い浮かぶかもしれません。
ここから二人のより上質な人間関係は始まるでしょう。

結論

ニーチェは恋に、友に、師に、家族に、そして自分に対して苦悩し、その度に筆を起こして生涯を通じて戦い続けたとされています。
その苦悩の姿は今回大々的に書きませんでしたが、本書ではその苦悩との戦いの跡が残されています。
そんな彼の言葉は確かに時離れて生まれた私たちであれども通じるものがあります。
哲学者として数多くの著名人と名を並べる彼だって人間であり、私たちと同じ悩みを抱えたという事実は私たちの生への渇望に、そしてその悩みと戦った記録とも呼べるこの手紙の数々は私たちをより上質な人間関係に、人生に導いてくれる指針になるに違いないでしょう。
もし何か人生で行き詰ったとき、一度ニーチェの言葉に耳を傾けてみるのはどうでしょうか?
最後に、ニーチェの言葉をまとめたページがあったので載せておきます。